3.11

東日本大震災から今日で13年。

当時私は、マリーゼというなでしこリーグのチームに所属して3年目を迎えていた。

東京電力のチームで私の職場は、福島第二原発。所属選手は、第一原発や火力発電所など、みんな東京電力で仕事をしながらサッカーをしていた。

大学卒業後からマリーゼに所属し、2年連続でなでしこリーグ3位、自分自身もとても好調で3年目のシーズンが始まってとてもワクワクしていた。そんなとき…

2011年3月11日、大地震が発生した。

そのとき私たちは宮崎キャンプ中だった。宮崎にいても津波の危険があるからと練習ができなくなった。

宿に戻り地震のことを知り、実家が岩手の選手は家族と連絡が取れなくなり不安になっていた。

みんな、東北に住んでいる仲間や職場の心配をしていた。

そして、テレビで衝撃的な映像が流れた。

福島第一原発の爆発映像。

言葉にならなかった。

もちろん練習も中止になり、会社からの指示を待った。

みんなで部屋にこもりニュースをただ眺めていた。全員で食事をする時間も静かだったと思う。

震災の影響で食事ができていない人もいるんじゃないかと思うと複雑な気持ちだった。

あの不安と絶望感は忘れられない。

数日後、私たちが住んでいた寮は第一原発から3kmほどの場所にあったため福島に帰ることはできず、それぞれ遠征バッグ一つで実家待機となった。

職場の人が頑張っているのに、サッカーをしている場合じゃないと思ったのと、チームは活動休止となったがまた再開する可能性もあるということから、すぐに会社を辞めて移籍してサッカーをするという気持ちにはなれなかった。

少し落ち着いて、東京の支店に勤務が決まったのでそこから通える日体大(母校)で練習をさせてもらうことにした。

みんな各職場から通えるチームに練習参加させてもらった。

やはりマリーぜが再開する可能性は低いということで、その後移籍手続きもした。

日体大が朝練だったのでその後出勤していたが、夏休みになると昼練になり参加できなくなり辞めることになった。

サッカーがなくなって、仕事だけの生活になり毎日が辛かった。

原発で頑張っている社員も避難所生活をしている方も大変な思いをしている中で、普通に生活できているでけでも幸せなのに、サッカーができなくて辛いと思うことさえもダメなことなんじゃないかと葛藤した。

そして、マリーゼの解散とベガルタ仙台への移管が決まったタイミングで会社を辞めた。

シーズンが始まるまで、知り合いのツテで男子高校生のサッカー部で練習をさせてもらい、準備をした。

様々なサッカー関係者が動いてくれたり、練習参加を受け入れてくれたチームの方々、応援し続けてくれるサポーターがいたおかげでもう一度サッカーをすることができ、感謝しています。

当時25歳で選手として調子がいい時にサッカーができなくなったこと、チームが解散し大切な仲間と監督とばらばらになってしまったことは今思い出しても悔しいし、涙が出そうになる。

それでもまたサッカーができて、毎日あたたかいご飯を食べて眠れる家があるだけでも幸せなことだ思うから、前を向いてこれからも生きていきたいと思う。

↓この写真と表紙の写真は震災後サッカーができなくなり、久しぶりにみんなで集まってボールを蹴った時。すごい楽しそうで大好きな写真。

↓ベガルタ仙台レディースができ、初めてのホーム戦。沢山のサポーターの声援とメッセージに救われた瞬間。

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